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2005.12.11

日中戦争と爆発赤痢問題

大牟田の図書館で仕入れた資料より(抜粋)


大牟田市役所裏手にあるsasapark笹林公園には、sasahi爆発赤痢碑がたっています。
正しくは爆発赤痢によって死亡したものの「慰霊碑」であります。
「昭和十二年九月二十五日恰モ支那事変勃発シテ三月全市ヲ挙ゲテ銃後任務ノ遂行に邁進セル秋、青天の霹靂ノ如ク突如トシテ我ガ十二万市民ハ古今ヲ絶スル悪疫ノ魔手ニトラハレタリ」と書き出す「慰霊碑」であります。この罹患者数は1万数千人を数え、内712人が死亡しました。大牟田市民の一割以上のものが罹患したという大惨事でありました。この「慰霊碑」は昭和14年8月に大牟田市(市長田中修)により建立されたものでありました。
この時期は日中戦争がたたかわれていたときでありました。
(中略)
爆発赤痢が発生した翌30日には、久留米憲兵隊より5名の憲兵が派遣され、さっそく市役所内に憲兵分駐所が設置され、ものものしい警戒体制の中で、内務省より特派の防疫官によって、「赤痢菌が地下水に混入した」とする発生原因は水道であると発表しました。ために当時の水道課長・塚本久光は引責辞職することとなりました。
 ところが塚本久光は、この水道原因説を否定し、「水道水を罹患原因と認めざる理由」を一冊のメモに残して世を去ってしまいます。この「塚本メモ」は大牟田市水道局の金庫の中に永年「極秘文書」といて秘蔵されていました。水道課長塚本久光は同記録の中で「瓦斯爆発ニ関スル調査報告」として

九月二十五日午後六時一回及二十六日午前零時一回三井三池染料工業所N工場ニ爆発事件アリ、尚聞及ブ所ニ依レバ二十三日モ爆発セル由ニシテ種々調査セルニ二十六日午前零時二十分ノ爆発は市消防組駆付ケタルモ工業所は之ガ入所ヲ拒否セリト
とのべています。
(以後略)

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